MENU
お問い合わせはこちらから

越後 春日山林泉寺

2019 9/18
越後 春日山林泉寺

(ぜん)とは、大乗仏教の一派である禅宗(ぜんしゅう)の略、もしくは、サンスクリット語の dhyāna (ディヤーナ)の音写、禅那(ぜんな)の略である。また坐禅(座禅)の略としての意もある。

母学道のプロジェクトとしては、初の新潟県は越後春日山林泉寺にて「禅」をテーマに開催されました。宗派は禅宗のなかでも一番厳しいといわれる曹洞宗に属しており、参加者はその環境で座禅の体験をしました。

目次

開催概要


曹洞宗 春日山林泉寺
令和元年9月15日日曜日
時間:9時~  ※多少の時間遅延も考えられます。
参加対象者:高校生以上の男女
参加人数:30名

上杉謙信御墓お参り


本堂で座禅を体験


曹洞宗 春日山林泉寺 縁起


今をさかのぼること500年以上の昔・・・越後守護代長尾重景と、諸国を行脚していた曇英慧応という室町時代の曹洞宗を代表する高僧が、上越の柿崎の地で運命的な出会いをした。重景は曇英和尚の人柄と、和尚の説く仏の教えに深く感じ入り、越後に留まってもらうために下小野という場所に庵を建て、そこに留まってもらうことにしたという。その庵こそが林泉寺の原点である。
重景がこの世を去った時、息子能景は父の17回忌までには春日山城の麓に曹洞宗の修行道場としてふさわしい林泉寺を新たに建立すると宣言し、その時が来たら迎えに行くと約束をして、別れる。

1497年(明応6年)能景自身が土を運び、汗を流して完成させた七堂伽藍落慶のため、齢70をすぎ老境にあった曇英ははるばる群馬から足を運び、旧き友能景との過去の約束を果たしたのであった。

その約40年後、能景の孫でまだ7歳の幼い少年が、林泉寺の門をくぐり、そののち7年間、6代目住職天室光育のもとで薫陶を受け育てられた。その少年こそがのちの上杉謙信、すなはち長尾虎千代であった・・・・・。

上杉 謙信とは


上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)/上杉政虎(うえすぎ まさとら)は、戦国時代の越後国の大名。関東管領(1561年 – 1578年)。山内上杉家16代当主。後世、軍神越後の虎越後の龍と称された。越後守護・上杉家に仕える越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男として生まれ、初名は長尾 景虎(ながお かげとら)。1561年(景虎31歳)、関東管領・上杉憲政の養子となり山内上杉氏の家督を譲られ(「上杉」姓と憲政の「政」の1字を与えられ)上杉 政虎(うえすぎ まさとら)と改名し、上杉氏が世襲していた室町幕府の重職関東管領を引き継いだ。後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱(「輝」の1字)を受けて、最終的には上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)と名乗った。謙信は、さらに後に称した法号である。内乱続きであった越後国を統一し、戦や政だけではなく、産業を振興して国を繁栄させた。他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、佐野昌綱、小田氏治、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げた。特に宿敵武田信玄との5回にわたる川中島の戦いはよく知られている。さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から北陸路を西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大したが48歳で死去した。兜は、飯綱明神前立鉄錆地張兜。謙信には実子がおらず、謙信の死後、上杉家の家督の後継をめぐって御館の乱が勃発した。謙信は、他国から救援を要請されると出兵し、「依怙(えこ)によって弓矢は取らぬ。ただ筋目をもって何方(いずかた)へも合力す」(私利私欲で合戦はしない。ただ、道理をもって誰にでも力を貸す)『白河風土記』と述べている。また、謙信が敵将武田信玄に塩を送った逸話から、「敵に塩を送る」という故事も生まれた。

歴史を学ぶと、もっと日本が好きになる 母学道ーー。

お知らせ


次回新潟県で4月に母学道のプロジェクトを計画しています。ご参加をご希望の方はFacebookページのフォローをお願い致します。

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次
閉じる